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 2015年1月6日夜8時からNHK総合

で放送され3年ぶりに帰って

きた『ブラタモリ』ではタモリ

さん初の地方ロケということで

記念すべき特番では京都を訪れました。

 

平均視聴率は10.4%を記録しました!

ブラタモリ関連記事~京都の秘密

 

千年の都京都を襲った幾度の衰退の

危機から脱出するためにおこなわれ

た巨大プロジェクトとは何か?

 

 

 

「琵琶湖疏水」「御土居」「新京極通り」

という3つにタモリさんが迫ります。

 

 

 

それに先立ち今回は「御土居」(おどい)について

お話したいと思います。

 

 

 

「御土居」は巨大城壁

 「御土居」(おどい)とは1591年に

豊臣秀吉による都市計画の一環として

京都に作られた城壁のことで土塁

(土で作られた壁)と堀を合わせて

「御土居」と呼びます。

 

 

 

秀吉の時代には「土居掘」といわれて

いたのですが江戸時代以降は「御土居」

になりました。

 

 

 

では御土居について詳しく

掘り下げていきましょう。

 

 

 

どこにどれくらいの大きさで作られた? 

御土居は全長22.5キロもあり高さは5m

幅20mくらいあったといわれています。

 

 

 

そして驚くことに近衛信尹(のぶただ)

の『三藐院記(さんみゃくいんき)』

 

によればおよそ2ヶ月で全て完成した

と記載されており最長でも4ヶ月で

工事が完了したのではないかとの説もあり

 

 

 

また現在のようにトラックやブルドーザー

はないので数万人規模で作業が行われたの

ではないかと推察できます。

 

 

 

御土居は史跡として現在9か所ほか

一部が残っています。

 

(1)北区鷹峯旧土居町
(2)北区大宮土居町
(3)北区紫竹上長目町・上堀川町
(4)上京区寺町広小路上ル北之辺町(廬山寺内)
(5)中京区西ノ京原町
(6)上京区馬喰町(北野天満宮境内)
(7)北区平野鳥居前町
(8)北区紫野西土居町
(9)北区鷹峯旧土居町

 

 

御土居跡マップは⇒コチラ

 

 

ちなみに

タモリさんがロケでいった

御土居跡は北区大宮土居町にある

大宮御土居です。

 

 

大宮御土居は現存する中で

最もきれいな状態で残って

いる御土居です。

 

 

⇒大宮御土居の写真はコチラ

「御土居」が作られた背景と目的

背景

京都という街が平安京の頃から

の街並みが守り続けられている

と思われている方もいるかも

しれませんが、

 

 

 

実は京都は室町時代の応仁の乱

によって焼け野原になりました。

その後復興は進むのですが大々的

な区画整理事業というものが行わ

れていませんでした。

 

 

そして秀吉によって京都復活

プロジェクトが行われます。

 

目的

 

御土居の目的は外敵からの防衛

と鴨川の水の氾濫による洪水対策

といわれています。

 

 

 

しかし防衛においては櫓(やぐら)

などの外敵の侵入を見張る施設も

発見されていないことから

 

 

 

防衛の役割よりはやはり鴨川の洪水対策

の役割の方が大きかったのではないで

しょうか。

 

 

 

鴨川は平安時代末期に白河法皇が

自分の意に沿わないとして嘆いた

と言われている天下三大不如意

(てんかさんだいふにょい)

(賀茂河の水、双六の賽、山法師)

にもあるように、

 

 

 

とにかく古来より氾濫していた為

京都の町を鴨川の洪水から守る御土居

の建設は秀吉にとって都市計画の

最重要課題であったのではないでしょうか。

 

 

 

ほかに御土居を境として内側を「洛中」

外側を「洛外」と分ける役割がありました。

 

まとめ

 

御土居は秀吉による都市計画事業

の集大成として作られました。

 

 

22.5kmにわたり高さ5メートル

の土壁と幅数十メートルの堀が京都の

町にあったことを想像してみると

異様な光景であったでしょう。

 

 

また御土居には竹が植えられていて

その竹が建築資材として管理されていた

話もあります。

 

 

 

莫大な労力と人手を使ってまで御土居

を建設した理由は外敵からの防衛と

鴨川の氾濫対策といわれておりますが

 

 

 

どちらも天下泰平の世を願う当時の

人々の精神に基づいているといえます。

 

 

 

京都は10年もの長い長い間、

応仁の乱により街も人の心も疲弊

していました。

 

 

 

したがって秀吉や京都の人々にとって

御土居の完成は一大京都復活プロジェクト

だったと考えることができます。